どうも最近タモリブームのようである。
いや、タモリ自身がどうこうなったというわけではなく、正確に言うと「リスペクト・フォー・タモリ」ブームだ。
タモリにリスペクトを捧げるのが流行っているのである。
何年か前から、テレビの中でよく耳にするようになった「タモさん、タモさん」(2回繰り返しが重要)という声が、
このブーム(本当にブームなのか)の前兆だったのかもしれない。若手のお笑い芸人やアイドル、ミュージシャンが口にする「タモさん、タモさん」は単なる呼称ではなく、
「対タモリ」観、ひいてはタモリを定点とした自分の位置宣言という側面もある。
タモリを「タモさん」と呼ぶこと自体よりも、タモリを「タモさん」と呼ぶ自分に意味があるのである。
今のタモリを "良しとする" は、
かつてモンティ・パイソンの番組に出ていたりした頃から「今夜は最高」あたりまでの
"やっぱりさ、タモリっておもしろいよな" というものとは繋がっていない。その後、「本気になりさえすれば」という、
まるでかつての「ジャンボ鶴田最強説」信者みたいなお笑いマニアタモリ派の影も徐々に薄れ、
まるで風景のようになってしまったタモリに至るのである。
みんなが見ているけれども、誰も見つめてはいないという、
ある意味「テレビタレント」の一つの到達点に至ったと言ってもいいかもしれない。もうタモリは何も期待されていないのである。
期待されなくてもいいという所にいたのである。
松田聖子は「ファンでした」という世間の意識によって存在している。
現在も新曲を出したりしているわけだが、それすら「ファンでした」という気分を
いい状態に保つためのオプションでしかない。思い出の反芻は目減りのしにくい娯楽だ。
徹子の部屋は良心的番組とされているのに、ゲストに非常につらいことを強いる。
「若い人たちの間ではとっても人気がおありで」と紹介し、
「お得意の出し物がおありなんですって?」などとリサーチ済みの話を振る。ゲストはこの時点でもうつらいが、説明したあとの
「はあ、それが面白いと評判なの」などという徹子リアクションである。善意のみでも悪意は発生する。
森繁久彌は映画界の重鎮だ。
森繁を見ていて思ったのだが、重鎮らしい所作というのは、ボケ老人の動きと共通する点が多い。他人の言うことを聞かない。
質問されても、そういちいちは答えない。でも、急に思ったことを口に出して言う。
ゆっくりとしか動かない。
ここに年寄りが集まる理由は明らかだ。
毒蝮は、自分のことを "ちょっといい話" の主人公にしてくれる。もう私のような若輩者が何やかや口をはさむもんじゃありませんね。
フォーエバー、毒蝮。
何が潰しがきくって、オリンピックほど潰しがきくもんはないだろう。
10年後、ヤワラちゃんは選挙に出ていると思う。
私は "顔面至上主義" を謳う。
見えるものしか見ない。
しかし、目を皿のようにして見る。
そして見破る。それが "顔面至上主義" なのだ。
(ナンシー関/1985~2002年)