権威の中で生じる思考停止

「何か、随分と高尚ですね。じゃあ、こっちも質問いいですか?
 金稼ぎを蔑むようだけど、貴方のやっていることは?

 人を殺して、異端を開放して、社会を乱す。
 これって褒められることですか?」

 

『いいえ。でも、迷いはない。
 私は取り返してるだけ。C教に奪われた自由と人生を。父と、友を。

 個人の自由を制限する権威は打倒されるべき』

 

「⋯でも、それは貴方も同じじゃ?

 つまり、権威の中で生じる思考停止は、何も宗教だけじゃなく
 学問(・・)って物の中でも起こるんじゃないですか?」

 

『違う。
 ーーーと言いたいけど、その通りかもね。

 私も何度も人を殺した。
 確かに真理(・・)を盾に暴力は加速し得る。
 もしかしたら、私は地動説という権威を盲信し、部下は思考停止で従ってるだけかも。

 さらに悲しいことに、ある種それは必然で、
 つまり何かを根拠(ぜんてい)にしないと論理を立てられない 人間理性の本質的限界として、
 思考すると常になんらかの権威(ぜんてい)が成り立ち、誰もその枠組みからは出られないのかもしれない。

 そうした状況下で駆動した情熱が、暴走とも言える軌跡を経て、
 時には偉業(うつくしさ)を、時には悲劇(みにくさ)を生む』

 

「⋯貴方のコレが悲劇ではない根拠は?」

 

『私の目的地には、自由があると信じてるから』

 

「自由の定義は?」

 

『そう問えること。

 少し喋りすぎたかな。そろそろ戻りましょう』

『そういえば聞いてなかった。どうしてそんなに稼ぎたいの?』

 

「それが私の信念だからです」

 

『なら重要だな。
 でも時々、信念なんて忘れさせる何かに出会ったりする。
 その感情も大切にすべき。でないとーーー』

 

「でないと?」

 

『私みたいになる。

 信念はすぐ呪いに化ける。
 それは私の強さであって、限界でもある』

 

「⋯でも、信念を忘れたら、人は迷う」

 

『迷って。
 きっと迷いの中に倫理がある』

(チ。ー地球の運動についてー)