「庭」を見つけるために結構大事なことは、一人になってください。
一人で街を歩いてくださいっていうのが一番の僕の回答です。
例えば僕ね、一人でご飯食べるの好きなんですよ。
ラーメン食べるために普段食べないし、夜とかほぼ食べないのは、
やっぱラーメンとかこってりしたものが好きだから、酒も飲まないし、
ランニングとかもしてるし、ジムにも行ってるんですけど、
それは食べたいものを食べるためなんですよ。そして会食とか嫌いなんですよ。
なぜかというと、味分かんなくなるから。(いろいろ話さなきゃいけないですよね)
でもそうじゃなくて、僕1日1食ぐらいにして好きなものを食べるって決めてるから。
1食がすごい大事なんですよ。命がけで食べてるんですよ、真剣に。絶対好きなもの。
適当な店入るとか絶対嫌だし。
特にラーメンの何が素晴らしいかっていうと、
友達とかとラーメン食べに行ったりしますよ、ぶっちゃけ。
するんだけど、どんだけ仲のいい友達と行ったとしても、
着丼した瞬間に人は孤独になるんですよ、わかります?(確かにラーメンに向き合いますよね)
全力でラーメンに向き合うことによって、ラーメンは強制的に人を孤独にし、
そこにはもう市場からの評価だとか、共同体からの承認とかも、その瞬間に全部アンインストールされて、
確かに自分と麺とスープだけの純粋な関係がそこに発生しているわけですよ。
だから僕ラーメン好きなんだけど、今のはちょっと面白おかしく言いましたけど、
一人で楽しめる場所とか、一人で楽しめる物事っていうのを見つけていくと、
自然と自分が、マーケットからの評価とか、共同体からの承認とかと関係なく、
自分が気持ちいい場所とか、自分が社会の一員なんだって安心感が得られる場所が
見つかっていくと思うんですよ。なので、自分がそういった「庭」的な場所を見つける方法というのは、一人になってほしいです。
一人で楽しめることを探すというのが一番の近道だと僕は思います。
物とコミュニケーションすることによって、他の人に認められるってことを横に置いても
ちゃんと自分と世界は関わってられるんだっていう、ちょっと別の回路が開くんですよね。それが「庭」的な場所を見つけるコツかなというふうに僕は思っています。
超極端なことを言うと、人間ってどんだけ頑張っても孤独になれないんですよ。
さっきのラーメンの例というのは、疑似的に孤独になれたかのような幻想に支配される
一瞬でしかないんですよ。でも僕の考えというのは、その疑似的に孤独になる一瞬しか公共性って発生しないんですね。
公共性の対義語になるのは共同性なんですよ。
共同性というのは、この界隈ではこれが正しいとか、
この村の中ではこの子は狐憑きだとみんな信じてるとか、
この村の中ではこいつは桃太郎で善玉でこいつは鬼で悪役だみたいなね。共同体というのは基本的に敵を作ることによって求心力を保つのでね。
でもそうじゃなくて、公共性というのはやっぱり一人、個人なんですよ。
私と世界なんです。そのバラバラの私同士が、目の前にいる相手とか、この時出会うかもしれないし
出会わないかもしれない誰かというのは、どこの誰か全く分からないんだけど
対等に人権を認められている。これが公共性なんですよ。なので人間の共同性を一瞬でもキャンセルできる時間ですよね。
(宇野常寛)
着丼した瞬間に人は孤独になるという話を聞いて、
「人は誰かと一緒にいても煙草を吸った瞬間に一人になれる。
逆に一人でいるときには煙草が相棒になってくれる」みたいなことを昔誰かが言ってたな〜と思い出しました。
「一人で街を歩いてください」ってのがすごく共感できた。
人が多いところに行くと一人でも謎の満足感がある。
常連常連した個人的な喫茶店でもなく、同質的な雰囲気のコワーキングスペースでもなく、
なんだかんだスタバに行っちゃうのもこれなんでしょうね。一人で居酒屋行くとかもそうだけど、いわば「共和的孤独」を味わうために行ってるようなもの。
私は同じことを平日の朝の公園に感じます。
ジョギングする人、犬の散歩する人、寝っころがる人、バードウォッチングする人。
皆がそれぞれにそれぞれの対象と取り組んでいて、真剣に遊んでいて、お互いの存在は感じつつも重なり合わない。休日になると家族や友人たちの空間になってしまう公園も、平日は庭。
ひとりで行く電車旅が私の庭です。
車窓からの眺めや初めて降り立つ駅に向き合っています。
街を歩くめっちゃわかる~
人生上手くいかなくなって鬱になった時、一番の慰めは深夜にひたすらあてどもなく散歩することだった
24時間営業のマクドナルドで独りハンバーガー食べてる時の記憶がいまだに一番安心できる時間として心の中に残ってる
多数派に好まれやすい・同情されやすいカテゴリーにいる弱者は過剰なほど救済され、
目立たない人間や好まれない人間、カテゴライズが困難なほど超少数派な人間は搾取される。共同体の実像こそ最も不平等な空間であるように感じられる。
共同体が良い悪いと言うより、良い共同体、悪い共同体があるだけなんじゃないかな。
現在この国の地方にある共同体は悪い共同体がほとんどだと思う。
だからこそ、共同体が煩わしい物だと考えてしまう人々が連鎖的に増えてしまっているような気もする。相互承認ではなく、他者との繋がりが自我の基盤だった時代は終わりゆくのかもしれないけど、
自分はなるべく実存的な人々同士が良い共同体を少しずつでも取り戻すことが必要だと思う。
押井守が昔何かのインタビューで
「コミュニケーションを取らないのもコミュニケーションだ」
って言ってたの思い出した。庭の話めっちゃ買って読みたいんだけど、本当に自発的に一人になる事を選べる人っているのかなぁ?
それができないからこんな社会になってるんじゃない?って疑問から抜け出せなくて
孤独やおひとりさまを勧める著名人はみんなお金・仕事・人脈等に恵まれた社会的強者
であることに注意が必要だなと思います。弱者が連帯せず孤独に楽しみを見つける方がそりゃあ強者にとっては都合がいいよね、
とすら感じます
地域共同体を再評価するみたいな流れも、今やだいぶ昔な気がしますね。
物理共同体による包摂みたいな路線は、もう本当に一部の人しか信じていないように思います。
できるだけ多くの共同体に参加すればいいと思う
人間関係の分散投資みたいな感じかな?
納得、自分ももともと一人行動が好きでしたので、年をとってもこのまま一人行動でいいんだと思えました。
一人行動でも時に誰かと言葉を交わすしね。コミュニティ、共同体で孤独老人を救う、みたいなことをよく言われますが、本当に違和感なのですよ。
その共同体になじめない方が孤独になりませんか?って。だから孤独に生きて、孤独の中で楽しみを見つけていくというのはとても前向きだと思いました。
ここ私の街だ、っていう感覚があったら1人でプラプラしてて楽しいです。
あっちからコーヒーの匂い、ここの垣根の曲がり角いいなあ、
銭湯帰りの人のちょっと湯気立ってる感じにこっちも気持ちがふわっっとしたり。この間、マンションの敷地内でとれた柚子ですって、道端でカゴに入った柚子が売られてて、
嬉しくなって買いました。
そうしたらご近所あちこちで庭のゆずが道脇で売られてるのに気づきました(都内街中です)
密かに流行ってる。個人のものであるはずのものが、ちょっと街にこぼれちゃってるようなことがいいんだよね、と思います。
時間や季節で現れたり消えたりする感じも庭的なよさかなと思いました。
まじでよくわかる
コミュニティに属してる限り、ただのイチフォロワー
自分の庭を作って初めてクリエイティブに生きれる
宇野さんの主張こそが承認欲求に感じる。
村社会から外れる自分。
ツイッターとかやってた自分。
カフェとか銭湯とかラーメン好きな自分だっていいでしょっていう。その話自体は面白いし興味深く聞いたけど
社会的にどう意義、正当性、公共性があるのかと考えたら一義性しか感じられなかった。
コミュニティが居づらい私はそれを肯定されたようで救われました。
人といるのもいいけど長いと疲れるんだもん。
ラーメンと向き合うて孤独のグルメじゃん。
