ずいぶん以前のことになりますが、某夜、石川淳氏と会って酒を飲んだとき、
バクチでもいいから手を使えと孔子が言ってるぞ、と聞かされたことがあります。その夜の石川氏はよほどそれが気になっていたらしく、二度、三度、くり返して
その戒言を呟きました。これがその夜の私にはたいそうひびき、いまだに忘れられないでいます。
ヒトの心のたよりなさ、あぶなっかしさ、鬼火のようなとらえようのなさを
よく見抜いた名言だと感じられたのです。
現代人は頭ばかりで生きることをしいられ、自分からもそれを選び、
それだけに執して暮らしていますが、これでは発狂するしかありません。手と足を忘れています。
分析はあるけれど綜合がない。
下降はいいけれど上昇がない。
影を見ているけれど本体を忘れている。孔子のいうようにバクチでもいい。
台所仕事でもいい。
スポーツでもいい。
畑仕事でもいい。手と足を思いだすことです。
それを使うことです。
落ち込んで落ち込んで自身が分解して何かの破片と化すか、泥になったか、
そんなふうに感じられたときには、部屋の中で寝てばかりいないで、立ちなさい。立つことです。
部屋から出ることです。何でもいい、手と足を使う仕事を見つけなさい。
とにかく、手と足を使う工夫を考えてみては?
(開高健)
