ぼやきの哲学

表に出たがるキャッチャーは駄目ですよ。
ヒーローになりたがる。

先発したピッチャーは、完投、完封、でヒーローインタビュー。
「理想どおりの、イメージどおりの球が投げられた」とか勝手なことを言ってる。

何ぬかしとんのやと思うわけですよ。
サイン出したのは俺やないかい、という思いがあるわけよキャッチャーは。

それを言えない。ヒーローは俺だって言えない。
ここにキャッチャーの辛さがある。

こういうのは監督になってからも生きるしね。

まぁ定着しましたね、ぼやきのノムさんで。
ぼやきって言葉は響きが良くないけど、ぼやきの哲学を言うとね、悪いことじゃないんですよ。

つまり、キャッチャーやってるでしょ。キャッチャーから培った性格。
外角低めを投げてこい、ここだ。サイン出しますね。たいがい来ませんわ。
とんでもないとこに投げてきて、どこへ投げてんだ、ここだって言ってんだろっていうような。

それを毎試合、百何十球受けてるわけだ。
理想は外角低め、ところが現実はぜんぜん違うところに来る。
だから理想と現実のギャップがぼやかせるわけですよ。

キャッチャーっていつも完全試合を目指してやってるわけですよ。
そういう夢を描きながらやってる仕事だから、理想形を求めるわけですよ。

ところが理想どおりにはほとんどいかない。
3千何試合やって完全試合1回もやってないんですから。
ですからこういうぼやきになる。

だから、僕がぼやかなくなったらもう死人と同じです。
ぼやいとる間は元気な証拠。

野村克也