みなさんが、文明世界から隔絶した島の住民だとしましょう。
生活は自給自足的で、昔ながらの素朴なやり方で農耕を営み、食料を手に入れています。
暮らし向きはさほど豊かではありませんが、特に大きな不満も抱いてはいません。
そこに、あるとき、外の世界から宣教師がやってきます。
宣教師は島での暮らしに備えて金属製の鍋、鍬、鎌といった生活用具や農具を持ってきており、
それらを見たみなさんは「ああ、便利そうな道具だな」と感じる。
実際、宣教師にそれらの道具を借りて試しに使ってみるとやはりとても便利で、
自分たちもそういった文明の利器を手に入れたいと思うようになる。しかし、宣教師が持ってきた道具の数は限られています。
みなさんは「もっと道具を貸してください」と頼んでみたものの、
宣教師は「もっと欲しいなら、自分たちで島の外から買わなければならない。
そのためにはお金が必要で、外の世界に何か物を売らなくてはいけない」と言います。
ここで登場するのがブローカー、つまり市場の中で売り手と買い手をつなぐ役割を果たす人です。
この人はみなさんに対し、「お金が欲しいのであれば、自給自足のための作物を生産するのではなく、
国際市場で売れる作物を生産した方がいい」とアドバイスしてくれます。「コーヒー豆、サトウキビ、カカオ、そういった作物を栽培して売れば、外貨が稼げるし、
そのために必要なお金や資材は貸してあげるよ」ブローカーの話を聞いて、みなさんはコーヒー豆をつくり始めることにしました。
自給自足的な農耕をやめ、換金作物の栽培によって外貨を獲得する農耕へと移行することを決めたのです。
その結果、島にはお金が入ってくるようになり、みなさんは金属製の鍋や鍬や鎌を自分たちで買いそろえることができるようになりました。
それだけではありません。みなさんの豊かな暮らしぶりを知った周辺の島々の人たちも
「あの島の住民のまねをすれば自分たちも豊かになれる」と考えて次々にコーヒー豆をつくり始めました。いいですか。ここまでは何も悪いことは起こっていません。
ところが、この後、大きな転換が生じます。ブローカーが突然、「コーヒー豆の買値を半分にします」と言いだしたのです。
「いや、そんな安い値段では売れないよ」。
みなさんは懸命に抵抗しますが、ブローカーは交渉に応じようとはしません。
「だったら、もう買わない。ほかからいくらでも買えるから」。
そう言って、値下げを一方的に決めてしまいました。
そうすると、みなさんはお手上げです。
なぜなら、自給自足用の食料を生産するのはすでにやめてしまっているし、手元にあるのは、
食用に適さないコーヒー豆だけだからです。単一の換金作物を栽培する農業形態をモノカルチャーと呼びますが、いったんモノカルチャーに移行したら、
つくったものを確実に売らない限り、食べていくことはできません。
だから、ブローカーが提示する値段が半値に下がっても、その状況を受け入れざるをえないわけです。
一番重要な鍵は、今、紹介した寓話の中に、いわゆる「悪者」は出てこないことです。
思い起こしてみてください。
島の住人であるみなさんは豊かさや幸福を求めていただけです。
宣教師も文明の利器の便利さを教えてくれたにすぎません。じゃあ、ブローカーが悪者なのかというと、それも違います。
ブローカーは、コーヒー豆をできるだけ安く買い取り、高く売ることを生業としているのであって、
そうした商行為自体は悪ではないのです。
もう一つの、二つめの鍵が、ここでの契約のあり方です。
一般的に契約は、当事者双方の自由意思に基づいて結ばれるものとされています。
それがいわゆる自由契約です。でも、法実務の世界では双方の自由意思に基づいていても、必ずしも自由契約とは見なされません。
片方が極端に有利で片方が極端に不利な立場にある場合は、契約は立場に従属したものなので、
自由契約とは見なされないのです。
これを「附従契約(adhesive contract)」といいます。みなさんも周囲を見渡せばおわかりでしょうが、世の中の契約の多くは、立場の有利不利をともなう契約になっています。
なぜか。立場の有利不利がどのようにして決まるのかを考えればわかります。
それは、互いの選択肢が相対的に多いか少ないかで決まるのです。
この寓話のストーリーに照らして言えば、島の人々がコーヒー豆を売る相手は、島に来てくれるブローカー以外にいない。
だから島民の選択肢は非常に限られています。これに対し、ブローカーはどこからでもコーヒー豆を買えます。
ブローカーが言った言葉を思い出してください。
「だったら、もう買わない。ほかからいくらでも買えるから」。
ブローカーにとっての選択肢はこの島から買う以外にもいくらでもあります。
しかも恐ろしいのは、コーヒー豆の売買契約を結んだ時点では、島の人々はこの非対称な関係に気づいていないことです。
島民は自由意思でブローカーと契約したつもりでおり、契約内容がブローカーの都合で変更される可能性を
想像すらしていませんでした。附従契約を結ばされていると知ったのは、ブローカーから「値段を半値にする」と通告された瞬間であり、
そのとき初めて自分たちがきわめて不利な状態に置かれていることを理解したのです。
さて、島の人々はその状態を元に戻せるだろうか。戻せません。
というのも、島の圃場は農薬や化学肥料などの投入によってコーヒー豆の栽培に特化した土壌に変質してしまっており、
モノカルチャーをやめて再び自給自足的な経済に回帰しようと思っても、それにふさわしいインフラはすでに失われているからです。
これが三つめの鍵となる不可逆性です。
もう一つ、重大なポイントは島の人々のマインドです。
彼らはかつて自給自足的な暮らしをしていた頃は文明の利器に触れたことすらなかったため、
それがないことによる不利益や不自由を知らずにすんでいました。しかし、コーヒー豆栽培によってお金を得て、自ら利器を買って使うようになってからは、その便利さや快適さを知ってしまいました。
だから、再び利器を持たない不便な暮らしに戻ろうというマインドは持ちようがないのです。
このように、構造的貧困の「構造」には二つの意味合いがあります。
一つは、ステアリング(舵取り)不能な、自分たちの営みより大きな「システム」に組み込まれてしまうという空間的帰結、
もう一つは、いったんそうなってしまうと元に戻れないという時間的帰結です。いずれの意味合いにおいても、すでに決められてしまった道をただ進むしかありません。
しかも、そうなることを事前にわきまえていませんでした。
つまり、意図せざる帰結です。そこに悲劇があるのです。
(宮台真司)