レゴ化

論理的に語れることは偉いこと、すごいことであって、
論理的に語れないことはダメなこと、劣ってることって考えてる人が多いんですよね。

あんまりね、論理的な考え方をして、それを他人に話すっていうのは、僕はオススメできないんですよね。

論理的な思考っていうのは、一長一短だと思うんですけども、まぁちょっと説明の仕方を変えると、
僕にとってレゴみたいなもんなんですね。

レゴは指で摘まめるサイズのブロックだから、まぁ割と大雑把な形なんだけど、いろんなものを表現できると。
たとえばディズニーのお城みたいなものも作れるし、ポルシェとか、そういう物をレゴで作るキットも売ってる。

でもね、所詮レゴブロックって指で摘まめるサイズだから、それをまとめて作ると、ディティールは割といい加減なんですね。
全体を見ると「お、レゴなのにうまく表現できてる!」と思うけど、ディティールを見ると曲線とか細部とかが、
やっぱ大雑把なところがあるんですね。

同じように、論理的思考っていうのは、レゴのブロックのように、問題を単純な要素に因数分解しないとダメなんですよ。
問題のレゴ化ですね。

いろんな複雑な問題を、敢えて簡単な小さいブロックに分けて、それをガーッと集めて問題全体を表現するわけですね。

不安定で小さい要素というのをバッサリ切って、無いことにしないと、論理的思考というのはやりにくいんですね。

つまり、複雑で細かいディティールは、思い切ってレゴブロックみたいな形にして、縦と横、垂直しかないよというような
簡単な形にして扱わないと、論理的思考というのは組み立てられないんですよ。

レゴは組み立て始めると、割と大きいものができるんですよ。
たとえば、ビジネスモデルみたいなものですね。

こうすれば儲かるんじゃないのか?こうすればいろんな人に届くんじゃないのか?という
でっかいビジネスモデルみたいなものも、論理的思考というレゴ遊びで、レゴの組み立てでできるんですけども、

でもね、所詮はね、やっぱレゴブロックなんですよ。
だから、デリケートなディティールは潰れてしまうんですね。

たとえば、ビジネスモデルの中で働く人の想いとかですね、
その時になって出てくる自分の中の感情みたいなものは、
ついつい論理的思考をやってると「無し」で考える癖がついちゃう。

無しで考える癖がついちゃうと、逆にそっちの方に心を持っていかれると
あ、俺はいま非論理的になってると、自分を否定してごまかすようになっちゃう。

だから、所詮はレゴなんですよ。
仮説として使いやすいんだけども、実際にどうかっていうと、まぁ、うーん、
使える場合もあるし、使えない場合もある。

じゃあ、それをさらに、もっと現実に即して、さらに深く掘り下げればいいのか?というと、
レゴのパーツが無数に小さく、無限に小さくなってしまうだけで、結局は組み立てにくくなっちゃうんですね。

全体像が大雑把に掴めるというレゴの利点が無くなってしまうんですよね。

だからまぁ、こういう落とし穴があるから気を付けましょうと僕は思います。

論理的に正しいんだからこれでOKなはずっていっても、納得してもらえなかったらしょうがないんでですね、
納得しない奴は頭が悪いからだ!というふうに考えないようにしようというのは、いつも僕が自分に諫めているところです。

岡田斗司夫