見たくないものを見ない権利

 

マーケティングの失敗かどうかっていうのは、それは企業の判断であって、そんなものは他人がとやかくいうような話じゃないわけです。
それは失敗したら日経新聞のブランド価値が落ちるだけの話であって、日経はそれでも落ちないと思ったからあれを掲載したわけで、
それはもう企業判断です。

だからこの議論を、今回テーマになっている「見たくないものを見ない権利があるのか」ってところに絞って考えないと。
そこでね、これは性被害を助長するとか、マーケティングの失敗だとか言い出すと、どんどん話が広がっていってしまう。

僕はね、性被害の助長になりうるかという議論は、別個としてはありうると思うんだけど、
この「見たくないものを見ない権利」なんて、そんなものを認めたら世の中の表現の自由はすべて消滅してしまうので、
論外だっていうのが基本的な僕のスタンスですね。

で、マーケティングの話も、広告の議論としてはそれはアリかもしれないけど、それはまったく別の話で、
見たくないものを見ない権利とは何の関係もないと僕は思います。

実際ツイッターとかを横断的にこの何年か見ていると、いわゆる過激なフェミニストと言われる人達の中には、
一生懸命グーグルで見たくないものを探してきては炎上させている人達もいるわけですよ。
それって、見たくもないものを見ない権利なのかっていう。

不快なものを見たくないっていう権利を認めたら、それは表現の自由じゃないよね。
多様性というのは不快なものを認め合う権利であってね、距離をおいて。
別に仲がいい人同士が、これが素晴らしいよねと言い合うのを多様性とは言わないわけですよ。

だから、不快なものを認め合わないで、一体どうやって表現の自由は守れるのか。
多様性はどう守れるのか。

そうやって不快なものを嫌いだって言ってるっていうことは、どんどん表現の自由を縮め、
多様性をなくし、全体主義へと回帰しているだけだと。

この人達は、よく「価値観をアップデート」みたいなことを言いたがるんだけど、
逆にものすごい守旧的な考え方で、戦前回帰に近いぐらいだと思いますけどね。

佐々木俊尚