私の子どもは世界のどこにも見つからない

商業施設を騒がしく走り回る子どもたちの中に、ときどき自分の子を幻視する。
並びあって登下校する中学生の集団に、電車の中で勉強している高校生たちのひとりに、
自分が育てていたかもしれない子の姿を思い描く。

私には子どもがいないので、もしも子がいたならば、あの小学生のようにあどけなく笑っているだろうかとか、
進路に悩む姿を見守っていただろうかとか、ひとりで過ごす時間に、ふと想像をする。

40代のおじさんになってみて、子どもがいない自分の状況・環境のメリット、デメリットを改めて実感している。

メリットは言わずもがな、自分たち夫婦に使う時間とお金が保てることと社会的な身軽さ。
デメリットに関しては、夫婦二人が関与する世界が狭くなっていくことの不安や、
人生における暇と無駄な時間の浪費や、老後の心配といったもの。
それぞれ書き出すとキリがない。

おそらく今はメリットが最大化されている時期で、このあとデメリットがどんどん大きくなっていくのだろう。

親が思春期の自分を育てていた年齢を迎え、よくそんなことができていたなと親を尊敬することしきりだが、
周りの友人や同僚たちも当たり前のように子どもを産み育て、日々やってくる課題に立ち向かっているのをみると、
自分の親に対するように尊敬の念を抱かずにはいられない。
私から見れば偉業と言っていい。

その一方で「どうしてそんな苦労を背負い込むのか」と思ってしまうのも正直なところだ。
想像もつかない苦労をすると分かっていて子どもをもうけるだなんてすごい勇気だと思うし、
自分は若い時から今まで、そんなコストとリスクをとる気力は抱けなかった。

子どもはかわいい、生きがい、子を成し育てるのは当然、という感覚や考えを抱けなかった自分は、
子どもがいることに対する具体的な実感を持ち得ず、想像するのも難しいゆえに、臆病風に吹かれた弱者として、
子を育てない大人であることにちょっとした引け目を感じながら中年の日々を暮らしている。

臆病風のほかに、
収入・子育て費用の不安、
出産の身体リスクを妻に負わせることの理不尽さ、
自分は遺伝子(ジーン)よりも情報因子(ミーム)を残すんだぜといった謎イキリ、
積極的に子どもを持とうとしなかった妻の意志、
生まれた子の健康状態への不安、
育つ中で犯罪や害意に晒され傷けられることの恐怖、
膣内射精障害、
劣化した遺伝子がもたらす実子への悪影響、
など、子どもを作らなかった理由はいくらでも後付けで挙げられる。

だが、結局ただの言い訳、逃げの一句に過ぎない。
たいした理由も展望もなく、ただ、子どもを持つことを想像できず、覚悟もできなかっただけなのだ。

この年齢になって、子どもは未来だとつくづく思う。

もし子どもがいれば、成長した10年後、彼らが家庭を持っているであろう30年後、
そして100年後、と続いていく未来を自分ごととして認識できるだろう。

自分の子どもたちがその未来を生きるのだから、少なからず興味と関心を抱けるだろう。

ところが、子どもがいないと、未来の時間は自分が死ぬまでの時間でしかない。
2050年にどんな世界になっているかなんてたいした興味も持てない。

社会に生きる大人として、何らかの主義主張を持ってより良い未来のためにアクションするのが
市民としての態度だとは思うが、いかんせんその未来の主体は、自分の肉親ではない他の誰かである。

もちろんずっと平和であってほしいし、心が躍る進化や文化がある未来であってほしい。
そんな未来を楽しむ期待はある。

だが、そこにいるのは死にゆく老いた自分であって、その頃にはもう希望も期待も薄れてしまっているだろう。

もし子どもがいれば、彼らが生きる未来こそが自分の生きる意味だと実感できたかもしれない。
子どもが健やかに生きられますように、と祈る未来よりも、自分たち夫婦が心安らかに過ごせるようにと望む未来は、
だいぶシンプルで色褪せていて、だいぶ寂しいんじゃないだろうか。

子どもがいないことは、自分の未来が短くなることなのだ。

「子どもを持ちたい」という欲を素直に少しでも抱くのであれば、どうか子どもを持ってほしいと思うし、
産みやすく育てやすい社会を目指して私も努めたいし、そういう社会になるべきだと考えている。

あつかましいことこの上ないが、自分たちのような人間の未来も託せる存在として、子どもは社会の宝、
というのは真理な気がする。

子どもを作らなかったことは後悔していない。
私はそれを選んだし、妻も納得したうえでの選択だ。
ただ、もしも子どもがいたら、という妄想を時々してしまうのをやめられないだけだ。

子どもを失った人や子どもを持てなかった人たちとは全然違う境遇だけれども、
子どもを作らなかった人たちも私同様にさまざまなことを感じて過ごしているだろうから、
ひとつのケースとして私の今の感覚を書いてみた。

子どものために生きないかわりに、自分勝手に暇な時間を過ごせている。
思っていた以上に暇で、人生のステージはずっと踊り場だ。
今はそんな感じである。

ただ、街ゆく子どもの中に自分の子を幻視したとき、言ってもらえるはずだった言葉を想像したとき、
あたたかく触れ合える存在がいてほしいと願ったとき。
そんな幻が消えたとき、少しだけ寂しくなる。

子どもがいない。
私の子どもは世界のどこにも見つからない。

みんなは寂しくないのかな。

(増田)