純粋直観

私はなるべく世間から遠ざかるように暮らしているのだが、その私がこの春の宵に急に何かを話そうと思ったのは、
近頃のこの国の有様がひどく心配になって、とうてい話かけずにはいられなくなったからである。

まず日本だけではなく西洋も同じように言えるのだが、学問にしろ教育にしろ、人を抜きにして考えているような気がするのだ。
実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人こそ学問の中心になるべきではないだろうか。
そして今、人に対する知識の不足が最も顕著に現れているのは、幼児の育て方や義務教育の面ではないだろうか。

人は動物である。しかし単なる動物ではない。動物という性質の上に、人間性という芽を継ぎ足したものなのだ。
芽なら何でも良い、早く育ちさえすれば、それで良い。そう思って育てているのが今の教育ではないだろうか。

たとえば柿の木が育つ過程を見てもわかるように、渋柿の芽は甘い柿の芽よりも早く成長する。
つまり成熟が早いと感じたのなら、まず警戒すべきなのだ。
すべて成熟は、早すぎるよりも遅すぎる方が良い。
これが教育というものの根本原則だと思う。

学問は頭でするものだと世間では言われている。
しかし私は、人間の情緒こそが学問の中心であると言いたい。

情緒には民族の違いによっていろいろなものがある。
例えるなら春の野に様々な色の草花があるようなものだ。
人間も、その他の動物を見ても、感情が不安定になると、体にも何らかの不調が生じるものだ。

情緒は交感神経と副交感神経という二つの神経によってそのバランスが調整されている。
そしてこの神経を司る場所は、人間の大脳皮質から離れた、頭の真ん中あたりにあると言われている。
つまりこの部分こそ情緒の中心なのであり、人そのものの中心なのである。

しかし私は今すぐ情操教育をせよと訴えたいわけではない。
今日の情緒が、明日の頭を作るということを知ってほしいのだ。
情緒の中心の調和が損なわれると、人の心は腐敗する。
社会も文化もあっという間に悪くなっていく。
春には蝶が舞い、夏には蛍が飛び、四季の変化が豊かであったかつての日本はどこへ行ったのか。

情緒の中心こそ、人間の表玄関であるということ、そしてそれを荒らすのは許せないということを、皆さんにもっと知っていただきたい。
これが私の第一の願いなのである。

日本人は元々、情緒を中心に生活をしていた。
そして自らの直観を信じ、すぐ実践に移すことを大切に生きてきた。
近代日本の礎を築いた明治維新、この改革運動が上手くいったのも、こういった日本人の昔からの特徴があったからだろう。

大自然の力である直観の一つに「純粋直観」と呼ばれるものがある。
この力があると、たとえば自分にとって明らかに正しいことを、絶対にそうだと確信することができる。
また、これはおかしい、何かが間違っていると感じたら、その問題点を発見し、修正することができる。

逆にこの力が弱いと、オウムのように他人のものまねしかできなくなっていく。
もっと言えば、あらゆる物事に対して自分独自の見解が持てず、他人の意見にすがりつくしかなくなるのだ。

今の日本を見ていると、明らかに純粋直観の力が弱まっている。
まるで深海の底に射す日光のように、輝きが薄れているように感じるのだ。

日本という国では、少しも打算の入らない行為こそ善行だとされる。
そしてこの行為の際に働いているもの、それが純粋直観だ。
かつての日本人は、この純粋直観が実によく働いていた。
それは絶えず善行を行うことによって情緒を磨いていたからだ。

この結果、人々は情緒とは何かを理解し、ますます善行を繰り返した。
つまり日本的情緒とはこのようにして出来上がったのである。
私たちは古来より続くこの情緒の流れを引き継いでいく使命があるのだ。

私が本当に心配でならないのは、今の教育のことだ。
事態がもっと切迫してくれば、皆が気づいてくれるかもしれない。
しかし、それでは遅すぎるのだ。義務教育が今果たすべきことは、道義的センスを付けることに尽きる。

では道義の根本にあるものとは何か。それは「人の悲しみがわかる」ということだ。
人間の強さ、逞しさは理解できても、繊細な心の悲しみがわかる人が今どれだけいるだろうか。
人の心を知らなければ、どんな物事を取り組んだとしても、緻密さが失われ雑になる。
対象への細かい心配りができないのだから、緻密さが欠のはもっともなことだ。

今の教育では個人の幸福が目的になっている。
人生の目的はこれだ、だからこれを言われたとおりにやれといい、肝心な道義教育を疎かにしている。
犬をしつけるように、主人に嫌われないための行儀を教える。食べていくための芸を仕込んでいる。
自分さえ満足すれば人生それで良いというのであれば、獣と変わらないではないか。

大切なことは、動物的な本能を磨くことではなく、人間としての情緒を磨くことだ。
そのためには人間の心の動きをよく観察し、それを汲み取るように導いていく必要がある。
また色々な美しい話を聞かせ、情操を養い、人としての正しいことや恥ずかしいことを見極めるセンスを育てていかなければならない。
ただ何より大切なのは、それを教える人間の心なのである。

岡潔 / 1901~1978)