「知」の構造

ここにペットボトルがあって、これは何回落としてもこうやって落ちるわけですよね。
これは絶対に落ちるわけです。

この落ちるっていうのは、何回繰り返しても落ちるものですよね?
それに対して歴史っていうのは、繰り返すとそうじゃなくなったりするものですよね?

つまり、何回も何回も反復可能なものについての「知」と、
1回しかないものについての「知」というのは、ちょっと構造が違うんですよ。

たとえば、ある人間についてわかるっていうことと、人間は一般的にこうだってわかるってことは、全然別のことですよね?
それはつまりある人間というのは1つの個体だから、そしてその個体として再生不可能な歴史でしかないから、
その人について「こういう発言をしたら怒る」ってことがわかったとしても、それは「知」として他に応用不可能なわけです。

「知」が応用可能であるということは、それはつまり反復可能だということなんですよ。
何回やってもできることについての「知」だってことなんです。

つまり、反復可能なことについての「知」と、反復不可能なことについての「知」っていうのが大雑把に分かれてて、
それが実はすごく大雑把には、理系と文系というものに重なるんです。

反復不可能なものについての知識っていうのは、そもそも「知」の構造としてまったく違うものを持っているんです。
だから、哲学とか思想とかが科学にならないのは当然で、科学とか「学」っていうのが、ある時点で、
反復可能であることを「学」の条件に入れたわけですよね?
そのときに反復不可能なものについての「知」というのは外に押し出されているので

東浩紀