SFだけの時間

SFってすごく変な世界で、ときどきSFブームってのが来るんですよね。
それであいだに冬の時代がある。

冬の時代は「SFって誰が読んでるの?」って状況になるんだけど、
でもずっとコアな人たちは読み続けている。

だからSF大会は世界のペースとは関係なく、我関せずのペースでやり続けてる。

SFの人たちは、世間の時間とはまったく関係なく、SFだけの時間を持ってる。
これ、けっこういいんじゃないかと思うんですよね。

ときどきベストセラーが出たり、世の中でブームが来たりするんだけど、
関係なくSFのコアは守られている。

文化って本来はこういうもので、アニメとかゲームだってそういう人が
いっぱいいたから支えられてきたわけで。

いまみたいにみんなが「Netflixは」とか「興行収入が」みたいなことばっかり
言ってる世界はなんだろうなっていう気はするんですよね。

たとえばぼくは押井守が好きだったんだけど、中学校2年生ぐらいで
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」に衝撃を受けてから、
押井守の話をじっくりできる仲間と出会うまでに10年ぐらいかかってると思うんですよ。

ところがいまはどんなマイナーな監督やクリエーターに出会っても、すぐ検索してすぐ仲間が見つかり、
「あれ、俺の感じた衝撃と違ったのかな?」と考えてすぐ軌道修正しちゃうわけですよ。

でも、昔はそこで時間稼ぎができた。
インターネットがなかったんで、ずっと自分なりに考えることができたわけですよね。
「俺にとっての押井とはなんだろう?」みたいな。
俺の押井論みたいな。

そういうのはたいがい勘違いなわけですが、
でも、そういうことを考える時間が必要だと思うんですよね。
そういう勘違いが多様性を作る。

いまはそれがなくなっちゃって、そこは若い人たちは気の毒だなと思うんですよね。
自分の軸が固まる前に検索して調整しちゃう。

だからこの作品はすごいと思っても、検索すると「たいしたことない」
「前作に比べるとずいぶん落ちた」みたいなことばっかり出てくると、
「あ、そういうもんなのか」って思っちゃう。

あれは気の毒だと思う。
もっと自分の第一印象を大切にするべきなんですよね。

東浩紀